前回までの話をちょっとまとめましょうか。
- ネットでは「紙面」が無限に増えるためメディアの広告価値は下がり続けている
- 既存のマスコミでも、(ネットの浸透を背景とした)視聴者の行動の変化により広告価値は低下しつつある
- 結果、コンテンツ(記事や番組)の作成にかけられるコストが減り、広告モデルで成り立つメディアのクオリティ低下が懸念される
- 従来、広告とコンテンツは明確に分けられるべきものとされていたが、その境界線がどんどん曖昧になっている
前回、記事の信頼性を誰が担保するか、というところで「すべての記事はペイドパブだと思ってあきらめろ」「あとは個人が判断するしかない」という話をしましたが、さて、判断の基準をどこに置くべきか。
広告か、ペイドパブか、公平な意見なのかがわからない世の中だとしたら、「広告か広告でないか」を問題にするのではなく「その情報が自分にとって有用かどうか」を判断基準にすればいいのではないか、と考えてみる。広告であっても役に立つ広告は歓迎すべき情報であると。そもそも、いままでマスメディアから流れていた情報の質ってどういう基準で決められていたのか。それが広告であるかどうか、とは別の話なんじゃないか。
以前紹介した10×10など見ていると、そこに現れる画像が、日本のメディアにあふれているものとはずいぶん違うので新鮮な感じがしますよね。テレビでも衛星とかケーブルでBBCとか海外メディアの映像を見てると、やはり見慣れない顔や風景が次々流れてくるので、新鮮な違和感を感じることができます。
「日本では決して報道されないニュース」なんてのもあるわけで、そうなると日本人の世界にはそのニュースは存在しないも同然なわけですよね。ある物事が存在するかどうかを決められるわけですから、ニュースの取捨選択をする人は情報における神にも等しい権力を持っているわけです。(まあ、その「神」の影響力にも限界はあるし、自由国家ではたいてい「多神教」ですけどね)
ここで、コンテンツの質の重み付けを神の権威にたよるのではなく、多数決で決めよう、という動きがインターネットに出てきます。すなわちGoogleの検索アルゴリズムであり、Amazonの「おすすめ商品」リンクです。
Googleは「他のページから引用されるページはいいページ(=リンクによる多数決)」という実に明快な基準で順位付けを行い、Amazonは「あなたと同じものを買った人が欲しがるものは、たぶんあなたが欲しがるもの(=興味の公約数)」と考えて推薦してきます。
そこに介在するのは、特定の人や団体の思惑ではなく、検索のアルゴリズム(計算方法)でしかない。そのアルゴリズムが、全世界(=80億ものWebページや膨大な購買記録の集合体)の総意を反映して、あふれる情報をフィルタして「これを読め」と教えてくれる。新しい「神」の誕生ですな。(注:そのアルゴリズムを作っているのは人間で、そのルールはしばしば修整されるというところはひっかかるのですが) もう、Googleに引っかからないコンテンツはこの世に存在しないと同然。
Googleの上位表示や、Amazonのおすすめ表示はそれ自体広告としての価値を持っていますが、その結果に利用者が満足している限り、それは有用な情報ですし、質の担保された情報ととらえていいんじゃないだろうか(っていうかネットユーザはそうしているわけです)。
「正しい少数意見はどうなる」という反論もあると思いますが、現在だって正しい少数意見はなかなか目に触れないわけで、「俺の意見が正しい少数意見だ」と電波の免許を持ってるだけの人が大声を上げるよりは、見えにくいところにでも確実に存在していてくれる(検索可能である)ほうがありがたい。
質の担保はネットユーザー+Googleがしてくれる。というのは楽観的にすぎるかな。メディアを規制するバランスの一極にはなると思うんだけれど。(バランスの重要性についてはレッシグの本でも読んで下さい)
TiVOも、その人が何を見ているかのデータを蓄積して、数あるチャンネル・番組の中から「これを見ろ」と勧めてくれる(録画しておいてくれる)わけですが、先日取り上げたように、試聴データを他に転用するようになったら、TiVO利用者のデータをすべてまとめて「この番組を見ている人はこの番組も楽しんでいます」という番組のパーソナライズとか、「いろんな人に見られている映像はいい映像」という情報の重み付けをしてくれるようになるかも知れない。
テレビ界はTiVOが支配する・・・のか?
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こんなネタもどうぞ:
- 「#ランドロイド購入宣言」に応募してみた
- 刀剣の第一発見者になった話(その1)
- ラレーRaleigh RSCの置き場所を考える
- 刀剣の第一発見者になった話(その2)
- ネットラジオレコーダーの不具合とその解決(2017年1月)
興味深く拝読しています。
ネットが既存のメディア産業とどう関わっていくのか、という議論は、たとえば切込隊長の周辺でも活発ですが、広告も含めた「情報の生産の仕方・消費の仕方」はまだ当分試行錯誤が続いていくのでしょうね。インターネットは、現時点では情報受信装置としては相当敷居が高すぎて(パソコンもケータイも持ってないけどテレビなら毎日見てるという人とか、あるいはパソコン持っててもメールしかできない人とか)、そのへんのインフラがどうにかならない限りは、たとえば広告チャネルとしてのテレビの優位性だってそう簡単には崩れないだろうと思います。もちろん、数十年後はわかりませんけど。
検索エンジンが「マス」を決定する、というのは興味深いですが、私はむしろ消費者が「総オタク」化するんではないかと見ています。自分の関心領域だけやたら詳しくなって、無関心なジャンルはますます無関心になっていくという、すごく極端な「知識人」が今後ますます増えるのではないかと。
いずれにせよ、上に挙げた一連の「ネットvs.マスコミ」議論なんかも含めて、「情報」を経済論理だけで考えてしまうことの危険性は、常に頭のどこかに入れておかないと、と思いますね。その意見が正しいか正しくないかはさておき、どうしても「少数意見」にシンパシィを感じてしまう、私なんかからすれば。
まとまらない話にコメントありがとうございます。
総オタク化の話で思い出したこと。
大学時代所属していたサークルが、とあるアニメサークルと一緒の部屋をシェアしていて、そのサークルの面々が、テレビ画面(当時はセーラームーンとかだったような)をとおしては会話が弾むけど、テレビを消すと黙り込んでしまうのを見て「世界のセル化・蜂の巣化」と言ってました。
携帯電話が流行始めたころも、満員電車の中で、ぎゅうぎゅうになっている全員が周囲の人とではなく、携帯電話を通じて他の人としゃべっているイメージがありました。
各個人はすごく近くにいるのに壁で区切られていて、片方だけ空いた窓(メディア)を通じてしかコミュニケーションできないという。
生態進化学によると、ある範囲に閉じた安定した環境では単為生殖が有利で、その環境だけに適応した、同じ形質を持った種が大繁栄するそうです。
「総オタク化」というのも適応の結果なのかも。
ただしそういう環境が洪水やなにかで急変すると、あっという間に絶滅してしまい、両性生殖による多様性を持った種が生き残っていくらしいですが。
話を戻して。
テレビの優位性の話は、現実には前回の給料の話みたいにまだまだ余裕なんだろうと思います。Googleの多数決システムについても、それがマンセーという話をしたいわけではなく、免許を持っている企業だけが規定するべきじゃないだろう、という話です。
現在広報の仕事の現場で「ネットとどうつきあうべきか」というのが問題になっていて、いろいろと考えなきゃけないのでこんな文章が続いてます。ひとりで書いていても妄想に偏るので、コメントつけて頂くのは非常にうれしいです。今後もおひまな時にお付き合いいただければ幸甚です。
「広告でもあり知識でもある情報」との付き合い方(後編)
(※この記事には 前編 と 後編 があります。)
前編では、広告は「役に立つ情報」になるべき、というお話と、
広告は「知的欲求のスピード」に追いつくべき、と…
グーグルの衝撃
グーグルの衝撃はニュースではなくアドセンスに!!